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白・素。 20周年記念展_1
安藤雅信|陶磁 上田亜矢子|石 梶原靖元|陶磁 金森正起|金属 郡司製陶所|陶磁 小山剛|木
Sai Chika|ニット 櫻井三雪|木 高橋禎彦|硝子 津田清和|硝子 深澤彰文|陶磁 馬渕寛子|紙
三谷龍二|木 宮下香代|紙 mon Sakata|衣 山本亮平|陶磁 Une place|衣
2022.3.5(sat) – 3.21(mon)



早いもので、今夏、夏至を始めてから20年を迎える。”白いうつわ”というタイトルにて
一歩を始めた2002年6月。振り返ると、白い服やものを好んで集めていた二十歳の頃の
自分自身、当時の時代に感じる簡素で親しみのある美しさを”白”と言う存在に託したよ
うに思う。

白瓷、白紙、白木、白石、砡、白絹、、。
今も白いものが好きで、その後もギャラリーに並び続けることとなる。だが、白が現す
ものは色彩だけではない。白く在るという現象、白く受け取るという感受性、まっさら
なもの、大切に想うもの。そんなどこか透明で美しいものに、私たちは”白”という文字
を写し、心を投影してきた。
白湯、白夜、白露、白昼夢、白星、潔白、、。

となると白も素も色々、十人十色ならぬ十七人十七白素。今展では、視覚が認識する色
を示す白と、事象や性質を示す素(しろ)の二面の“しろ”を作り手に託している。どん
な白が素が、はたまた白色ではない素が現れるのか。
20度目を迎えるこの春に、今一度白く素い心持ちにて、心動かし、歓び、皆様と今の白、
そして素を味わいたいと思う。

素|絹糸を束ね染める時の形状より成り立つ
  束ねた部分が白く残り”素”となる


作家在廊日
5日(土)午後 郡司製陶所
6日(日)午後 三谷龍二
10日(木)午後 櫻井三雪
12日(土)午後 小山剛
17日(木)午後 Une place
閉廊日 火曜 3月2日(水)-3月4日(金)






白、素。
作品全てが一つ一つの白と素であり、
その背景には作家一人一人が描く白、想う素の有り様があります。
今展に際し、出展作家に文章を寄せていただきました。





「貧・愚・虚の白色が好みで、追求し続けています」   安藤雅信



安藤雅信の白い食器、その存在はこの20年の工芸の歩みを象徴するこ
ととなる。それまでの時代とは異なる陶磁器、生きることと共にあり、
暮らしの風景を作り、重ねることができ、且つ一つ一つに個性がある
人間の手業から生まれた器。あのデルフト皿の白は、工芸界の舵を切
る大きな旗となっていったのだ。
20年前夏至を始めるにあたり、私たちのための白い器が必要だと感じ
ていた。静けさに満ちていた百草へと出掛けていった一歩。緊張の中、
白い器に加え銀彩器やオブジェを選ぶ私を心配そうに眺めていた姿が
思い出される。
安藤雅信というアーティストが新しい白を世に投じてくれたお陰で、
夏至の始まり、そしてその後の我々の食卓には”私たちの白い皿”が並
ぶこととなる。/夏至




白い石を彫っていると、あたり一面が石の粉でだんだん白くなっていく。
作業台も時計も私も、みんな同じようにすべてが白くなっていく。
光と影が満ちている白い白い景色を夢みて、染まっていくように感じる。   上田亜矢子



夏至にとって素(しろ)き存在といえば、やはり上田亜矢子の石彫だろうか。2002年に出逢い、
その後20年、互いに何者かも分からない時分よりずっと夏至という存在と伴走してくれている
同志である。当時上田は、雄大な作品群を制作していた。その中にあって、夏至の小空間の為
に掌ほどの愛らしい作品を発表。
十数年が経ち、上田は再び大作へと向かおうとしている。あの小さな世界を創造してきたこと
で見えてきた視座を礎に、互いに励まし、同時代のアーティストと長い時間を共有してこられ
た経験は、今大きな財産となっている。上田作品は、これからも産声が上がる瞬間に立ち会う
ことのできる、大切な素い存在であろうと思う。/夏至




白瓷に想う

念入りに鉄絵や染付、色絵が施され、それでもまだ素地が見えないくらい細密画を描き込んだ作品
は空白への恐怖に陥っているように見えます。対して白瓷は、なにひとつ加えないからこそ素材と
ラインの美しさが際立つのではないかと考え、仕事をしています。         梶原靖元



隣国より運ばれてきた白瓷。この仕事に就く前の私は、その異国の柔らかな白に憧れていた。
梶原靖元の白瓷は、それまでの私が想うそれとはどこか風体が異なり、微かな碧みを讃えた白、であった。素となる砂岩が表出する高台、雪解け水のような釉薬、雲のようにたなびく輪花形、まるで自然物のように清く、どこか長閑な白瓷に惹かれていく。土、石、火など素材と親密に向き合い、経験からくる己の直感を信じる。その反復により的確に手間をかけ、最高を得るしごと。
憧れの異国の白いやきものと、梶原のこの清らかな白の源流には、同様な陶工の姿があるように感じている。/夏至




金属器を日本の食卓に使ってもらうには、
温かい食べ物を載せて、少しでも違和感のないように思って貰うにはどうしたら良いだろう。
白い紙の上に線を描いていくような気持ちだった。

道を切り開く為に、考えられる素材や仕上げを探っていく中で、これまでになかった琺瑯を作ろうと辿りついた。

琺瑯は、鉄に釉薬が被さっているけれど、
なぜだか「素」を感じられる軽やかな一つの素材であるように思う。
長いこと試している日々、まだまだ未知なる可能性を秘めている。   金森正起



白には朝露のような清浄さ、綿花のようなふわふわとした甘さなど、受け手への相反する作用がある。しろく感じ
るという人間の感覚、色に投影する情景や事象の有り様が「白」「素」という文字に現されていることが多く、や
はり私たち日本人にとり、白、そして素は特別な文字の様に思う。
惹かれるものには、いつも相反する要素が共存している。硬さと柔らかさ、強さと優しさ、技量の高さと素朴さ。
金森作品には、いつもそれを思わずにはいられない。鉄なのに柔らかく(感じる)、制作への情熱は人一倍強いが
どこかおっとりとし、荒々しい素材を用いながら作品は素朴だ。
素、そのものである金属は、金森にとり、何にでも変えることができる白い存在なのだろう。/夏至



日頃、
「白」·「素」に関して
考えているわけではないですが、
あらためて考えてみますと、
どちらも、めくればめくるだけ、
あるような、ないようなことのようで、
よくわからなくて、
おもしろいことであると思います。   郡司製陶所



東か西か。現代作家が作る陶磁器の白は、そのどちらかに振れることが多い。郡司庸久、郡司慶子、他仲間たち
から成る郡司製陶所の白は、東に行き、時に西にも行く。中世の暖炉の前の煤けたジャグとなり、英国紅茶を愉
しむ洒落たティーポットになり、現代日本の茶漬けの碗にもなる。土と釉と形と焼成方法が掛け合わされ、その
時々に焼かれる白は、展示空間をも要素として掛け合わせられる。
ギャラリーと共にものづくりをしようとする姿は細やかに白への匙加減を変え、私たち伝え手の気持ちも温めて
くれる。名を郡司製陶所としていることも然り。排除する白ではなく皆を受け入れる白であろう。この姿勢は万
国共通、なるほど幼子を囲む食卓にも、やきもの好きな強者にも、生きることを愛するアーティストにも広く愛
される所以と合点が行く。/夏至




朝、窓の外
一面の雪に覆われた世界を見て、心が弾む。
シーンとした空気の中にしばらく身を寄せていると心が落ち着いていくのがわかる。
そんな日は、窓際に机を移動して、白の世界をしばし眺める。
雪に反射した白い光が心を照らし、包み込まれていく。
この美しさを作品の中に閉じ込める事ができたならどんなに素敵な事だろう。   小山 剛



木の仕事は、目の前の木材という素材をどう現すかであって、焼物や硝子のように、材そのものが変化することはない。そのため、素そのものと常に向き合い続ける仕事である。樹はそれぞれの歴史を持ち、自然物として荒々しいほどの素朴を持つ。そのやりとりは易しいものではない。特に樹齢を重ねた材を好む小山にとっては尚更のことだろう。
数百年、数千年を生きてきた樹木の持つ素は、深い深い眠りの中にある。その眠りをどのように揺り動かし、何を掬い何を現すのか。その決断の積み重ねを私たちは待ち望み、味わい、共にこれからの時を有していく。
小山剛の白は、樹という素が大いなる眠りから覚めた、生まれたての白である。/夏至




庭の雑草を抜く度に、根のけがれない白さに心が揺れる。土の中で眠るサナギを掘り起こしてしまった時も、その瑞々しい白さに畏怖してしまう。白く在る。その不自然な不安定な美しさが私 の琴線にふっと触れるようなのです。手塩にかけた素の白い糸たち。白い羊、白い繭玉、晒しの 麻。色々な素の白を分ち合えましたら幸いです。          Sai Chika



ニットデザイナーであるサイチカとの出逢いは、やはり白だった。青空に旗めく、青空に似合わないコンテンポラリーな白いニット。青空の下、その異質で美しいニットに恋するように魅了された。サイチカは、夫である服飾家とともに、様々なアーティストのための衣装を手掛けている。仕事を始めた頃、夫妻で発表したたった一度きりのコレクションも白がテーマだったと言う。以後、サイチカの持つ高い技術と創造性は、多様生物のように、生き生きとした立体を編み上げていく。蚕や種子、雪の結晶や流星群、それはどこか異形な美しさ。白の同志、サイチカのニットは白い生命体のようである。/夏至




傍らにいた「白・素」
始まり帰る場所まで
かたちなきものの光
受け止める       櫻井三雪


櫻井三雪の彫刻作品の木肌は、冬の里山のようだ。夜半に降った雪がまば
らに山を白く染め、下には落葉が積んだふかふかとした土がちらちらと覗
く。または霜が降りた早朝の地面のような。そんな、仄かな白肌の在り方
を好ましく感じている。実は櫻井は20代の頃からの友人である。決して器
用ではない彼女の生き方に、時折こちらも挫けそうになる。ただ、だから
こそ生まれるひたむきさは圧倒的で、硬い土から芽を出す早春の草花のよ
うに、伸びよ、伸びよ、そして咲いて咲いて、種よ、誰かの元へと届いて
くれ、と願ってしまう。芽が伸び、蕾が開くような姿を作りたいと言う。
小さく健気な白い花を咲かせてくれたら嬉しい。/夏至



80年代の初めに初めてドイツに行った時、いろんな古い建物の内部がただ白く塗られてリノベートされて
いるのをよく見ました。自分が働いた工房でも最初に白いペンキとローラーを渡されて、何週間もただ建
物の内部を白く塗る仕事をやらされたところから、何でも白く塗ることが大好きになりました。漆喰とか
微妙なモノではなくて、「ただ塗っちゃえ」的な行為なのですが、ボロいものが全てオブジェ化する現象
はすごいなあと思いました。
モノをつくる時に初めから均質に真っ白にするのは、それと違ってとても気を遣う行為です。塗りこめら
れたのとは違い、純粋無垢なものを目指すといろいろなものを排除する努力が普通なのでしょう。ガラス
も透明とか真っ白などのモノトーンを目指すと相当面倒なことになります。ただ、それに他のものが合わ
さった時に生まれるシアワセ感は捨て難い。
ところで白いご飯は大好きですが、お焦げがあるのはもっと大好きです。          高橋禎彦



硝子の白とは不思議な存在である。見えるような見えないような、冷たいような温かいような。まさに白という色が持つ、相反する魅力を持ち合わせている素材のように思う。それを受けてか、高橋禎彦の白い硝子器はやはり不思議だ。乳白のボウルは繭玉のように優しく、白いピッチャーは百合のように気高い。片や、縁に白硝子を巻いたコップはポップアートのようで、たちまちペンキ感が漂う。
白硝子に光が通るか否かの違いなのだろうが、その変化(へんげ)は高橋禎彦というアーティストそのもので、いつもこちらの要望を面白がり、仕事の改良を愉しみ、物事の変化を遊びのように悦ぶ。
挑戦と発見という心の電球が、いつもピカッと白く発光しているのだ。/夏至
















例えば明治から昭和のはじめに作られたガラス。
煤けた色味に泡が入っていようがお構いなし。
そんな素材感にとても惹かれます。
紆余曲折を経ましたが
そんなガラスの「素」に辿り着いたからこそ
素直な気持ちで器づくりが出来ているんだと思います。   津田清和



霜、霞、雪、氷、、、。津田清和の硝子器は、水の変容の様を思わせる。
水は、液体、固体、気体と姿を変え、変化しながら地下、地上、対流圏
を循環している。私たちはその変化の様を多様な自然現象として慈しみ、
その一部を生きるために飲料する。美しく見える現象も当然一様ではな
く、雪には塵が混り、氷には時間経過の筋が現れ、霜は不揃いに立ち、
霞は不安定に棚びく。津田の硝子は薄氷のように美しい。しかし私はそ
の均整のとれた姿に潜む、微かな雑味が好きだ。硝子が高熱の中流体で
あった痕跡や色が混じり合う様、不規則に上る泡粒。そこに津田硝子の
素を見、津田自身の純粋を見ている。/夏至




色々な白がありますが自分なりの白を作っていければと思います。   深澤彰文



緊張と緩和、その両者が白という存在にはあるだろう。轆轤も然り、回転の中、弛緩
を幾度となく繰り返していく。深澤彰文の白磁にも雪や紙のごとく、触れてみたい優
しさと、汚してはならない清さが同居しているようである。深澤の白、そして轆轤か
ら為るフォルムには、ややその優しさに軸足があるようで、触れてみたい、他の色を
添えてみたい、そう思わせられてしまう。
花人でもある深澤の白は、他色を支え、活かす。そして添えられた色により、尚一層
白さを増す白のように思う。/夏至




「和紙を素材のまま使うのは美しいと思う気持ちだけなのですが、和紙は紙縒りにすると和紙自体の色が
濃くなり、ちぎれば透けて透明感がでたりと、手の加え方によっていくらでも面白い発見があります。
日々見ている景色は周り一面にある田畑、冬にはそれを全て隠してしまう程の雪の景色です。その景色は
一面同じ色のように見えて所々どこか違って、そんなところが美しいと感じます。同じ白でもどこかが欠
けてる、そんな白や素に惹かれます。」   馬渕寛子



馬渕寛子は紙を溺愛している。紙と戯れる時間を偏愛している。恐らく。というのも実はまだお会いしたことがない。
お会いしないままにこうしてご一緒して頂くことは初めてで、失礼を承知の上、そうしてまでもその溺愛偏愛を感じてみたかったのだ。
馬渕は札幌で、”紙の馬渕”という紙の専門店を営んでいた。美しい和紙、西欧のざら紙、古い包み紙、紙束、全国から
紙を愛する人々が唯一の景色を求め集ったと聞く。その蒐集紙から為る造形物は、表現と言うには易しい、尋常ではな
い戯れの集積のようであった。無心に手を動かし、というよりどうしようもなく手は動き続け、ゆえに作品には雪の朝
のようなまっさらな静けさが漂う。時にまっさらとは、手数の量と反比例することを知る。/夏至




漆器は伝統的に朱色と黒色を主な色としてきました。なかでも鮮やかな朱色の辰砂(水銀朱)
は大変高価であったので、ハレの時の色、高貴な色として使用されてきました。朱の漆器は、
少し改まった設えの時にとても効果的な役割を果たしてくれて、気持ちが引き締まります。た
だ、今の僕たちの暮らしを見直してみると、カジュアルな日常の日々がほとんどで、朱を必要
とする特別な日が数えるほどしかないことも事実です。そうしたいまの暮らしを考え、求めら
れている色とは何かと考えた時、ぼくのなかで「白」が浮かび上がってきたのでした。白は以
前からぼくの大好きな色でした。白シャツ、白木、白磁、粉引、白い壁。身の回りに「白」は
とても多い。それに北陸福井に生まれたぼくにとっては、冬の間ずっと雪で覆われている街。
どこもかしこも真白なあの景色が、いまも原風景のように残っているのです。

「白」は、日常と聖性のあわいにある色だと感じます。   三谷龍二



三谷作品との出会いは、20年以上前に遡る。それまでは理解できずとも現代美術が好きで、そんな美術館にばかり足を
運んでいた。私にとり、等身大の工芸というものの認識はペルソナ工房の仕事に、手許に置くことができるアートは、
クラフトフェア松本の案内状(三谷の手による小さな人形とそれを収めた写真が案内状だった)が始まり。初めてどん
ぐりのキーホルダーを購入した時の嬉しさ、案内葉書を見つけた時の胸の高鳴りは今も思い出すことができる。三谷作
品はこの世界への入り口、始まりの白き存在であった。
今では器も買えるようになり、自宅で白漆の皿を好んで使っている。そのカフェオレのような白は、漆器という少し堅
さを孕む食器と親しみを湛える木器を繋ぎ、食卓の上では多様なメニューに調和を与えてくれている。始まりの白は、
今、私を日常の悦びへと繋いでくれる白い存在となっている。/夏至




貝を砕いて細かな粉にした胡粉の白さに魅せられています。
それだけで美しいので生かしてかたちにするよう心に留めて手を動かします。   宮下香代



紙という素材は、それだけで白く素き存在。日本人には、”白”と言えば和紙を連想する方も多いのではないだろうか。
宮下作品の中では、全ての部品は”素”である。結合させることはあれど、燃焼や溶解といった素材そのものを変化させ
ることはない。宮下香代による紙造形作品はどこかユーモラスで、気ままで、ちょっとのんびりとしていて、この世を
全肯定、大丈夫よ~と言ってくれているようだ。紙の持つ弱さは軽やかさに、素(しろ)さは自由性に、白色は空間との
同調に。作品を前にすると肩の力は抜け、幸いな状態へと堕ちてゆく。素材から作品への転換、その仕組みそのものが
作品で、その不思議をいつも面白く眺めている。「面白い」とは、目の前がはっきりと明るくなった状態が語源である
と聞く。宮下作品の作用によく似合う”白”である。/夏至




始まりの色 終わりの色
何色でもあり 何色でもない   mon Sakata 坂田敏子



mon Sakataは今年45周年を迎えるという。そして今春の服のテーマは奇遇にも「白」。始まりの白よ、と仰る。mon Sakataの
白い洋服には、働く人々、生活する人々の制服のような印象がある。汚れも勲章、着用する人々の色に染まることを前提とし
ているようなおおらかさ。デザイナーである坂田敏子が選ぶ白、そしてその白に与えるフォルムは、着る人々の自由なキャン
バスなのだと思う。mon Sakataの服を着ると、私の凝り固まった頭には風が巡り、縮こまった身体は大地に広がる。いつだっ
て白く、素くあれるように。mon Sakataというブランドの服を通し現れくる坂田敏子の白布は、私にとり、この服を愛用する
多くの人々にとり、大きな大きな母なる白き存在であろうと思う。46年目も。
45周年、御芽出度うございます。/夏至




白は関わるものによって見えかたが変わる繊細な色です。
その印象に結論はなく、白瓷をいつまでも作り続けられるのです。   山本亮平



夏至が一番付き合いの長い店かも知れない、昨年だったかそう言われた時は、時の流れを
感じずにはいられなかった。当時の山本は、型打ちという17世紀初頭より伝わる技法にて
磁器を制作。その器は軽やかで、若葉のようだった。初めて有田の山本邸を訪ね、もてな
して頂いた時の器と料理の瑞々しい様は忘れられない。その後辿ることとなる有田陶磁の
源流への旅は、同時に自身のやきものの素へと向かう旅だったことだろう。古窯を歩き、
陶片と語らい、遂には自身の薪窯を築き、深く根を張り始めている。
素朴な雑器を作りたい。そう語る山本の白瓷は、様は変われど今も若葉のように初々しい。
情報過多の世にあって、この”なんでもないもの”へと辿り着く道程は、徒ならぬ白き道で
あった筈である。/夏至




私にとって「白と素」というテーマは、
技術と素材に向き合う象徴に思えました。   Une place sur la Terre 鈴木麻美



une placeといえば、フォルムの可愛らしさや縫製の確かさに魅力を感じている方が多いかと思うが、その前の素材の選択、そし
て素材の活かし方を心得ている服飾家のように思う。une placeとの仕事も長い。私たちからの無理難題にいつも想像をはるかに
超える洋服を提案してくれる二人には感謝しかない。
une placeにとっての初めての洋服展示、一緒に出展した初めての屋外催事、提案型の衣服の制作、思えば私たちの初めての挑戦
を、随分une placeにご一緒してもらっている。今や、展示ごとのクリエーションは素晴らしく、展示空間、ギャラリーオーナー
の特性、お客様の趣向、様々に心を寄せ表現している。我々も素の一つであれば、やはり素材の用い方に長けた服飾家。
自身を何かに染めず、素く正直に在るからこそ為せることではないだろうか。/夏至






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